こんにちは。暮らしっく不動産の徳留です。

日野市に住んでいた小学生時代に社会の授業で玉川上水の勉強をしたことをふと思い出しました。
羽村にある取水所を社会科見学で見に行った記憶があります。
当時は"玉川兄弟が頑張って工事をして江戸の人達が水を飲めるようになりました。"という程度の知識しかなかったのですが、建築や不動産の仕事を現在してから改めてこの工事の内容を調べてみるとおそるべき内容だったので書いてみることにしました。

都心部でも水を

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今の皇居に江戸城があった頃のお話です。
徳川家康の時代は江戸の街は開拓されたばかりで人口もそんなに多くなかったようなのですが、三代将軍家光の頃になると参覲交代で地方からやってきた大名御一行様などの影響により人口がどんどん増えるようになりました。

現代では水道は蛇口をひねればでますが、当時はそのようなものはなく、湧き水に頼った小さな上水を利用していたようです。ですが人口が増加したことにより、そのような湧き水程度の水では全然足りなくなったそうです。

玉川兄弟のチームが8ヶ月で完成

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1652年に色々と検討した結果、多摩川の水を江戸の市中に引き込もうという話になります。
ちなみに上記の地図の水色の部分が多摩川です。
今と違って電気式のポンプがあるわけでもないので、高低差を使って水を引き込むしかない時代の話です。

そして、工事請負人は庄右衛門、清右衛門兄弟に決定。
1653年の4月4日に工事を始めて11月15日に完成させています。(この時は今の暦と少し違うようで6月が二度あったようです。)
羽村の取水場から四ツ谷まで43kmを掘る工事を8ヶ月で完成って相当すごいですね。
重機も無い時代。ひたすら掘る!という手法で8ヶ月。おそろしい。。。

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羽村にある取水所です。水色の線が多摩川。緑色のラインが玉川上水です。
多摩川を引き込むポイント。ここから43kmかけて四ツ谷までいきます。

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地図で見ると、この43kmを手掘りで8ヶ月かぁ。と感心してしまいます。
色々な情報を調べていくとこの頃は測量の道具もなかったので夜に提灯や線香を持った人をずらーっと並べて、ちゃんと勾配が取れているかを確認していたそうです。それで完成しちゃうんだからすごい。

失敗もしている

ちなみに、この工事、二度失敗しているそうで、1度目は日野市から取水しようとして水がよく染み込む土地にぶちあたってしまい、水がそこから先に行かなくなり失敗。二度目の失敗は福生から取水しようとして岩盤にぶちあたって失敗。三度目の正直で現在の羽村からの取水で成功したそうです。
ところが今度は高井戸まで掘ったところで資金が底をつきます。仕方がないので、この兄弟は自分の家を売って資金を作ったそうです。

結果的に工事がうまくいったので彼らは苗字として"玉川"と名乗ることを許されます。
また報奨として扶養米200石ももらいます。現在の単位ですと米30,000kgでしょうか。

ルールも厳しい

玉川上水というぐらいですから飲み水用です。
幕府は使用ルールを厳しく決めていたようです。

  1. 魚をとってはいけない
  2. 洗濯してはいけない
  3. 水浴び禁止
  4. ゴミの投棄禁止

最後に届くのが江戸城のほうなので、さすがにここはきっちりやりたい幕府なのかなぁとも思ったりします。
羽村、代田、四ツ谷には水番人と呼ばれる管理人を置いて水量の調節やゴミの撤去をさせたということですから、かなり気をくばっていたものと思われます。

その後は?

その後、玉川上水から33もの分水が行われ江戸中に水が行き渡るようになったとのこと。
水が通れば当然、輸送の経路で使わせて欲しいという声が出てきます。
鉄道も無い時代、人や馬や船で物資を運んでいた時代に玉川上水はうってつけの経路だったようですが、水質が悪くなるという理由で幕府は許可をだしていませんでした。
明治維新が起きて、管理が幕府から政府に変わった時に許可が降りるのですが、案の定、水質が悪化。二年ほどで許可が取り消されたそうです。その後中央線ができるわけですが、そのきっかけは多摩地区からの輸送能力をアップするためと言われています。

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分水の一つである千川上水の跡地。

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現在は公園になっていますが、真ん中の柵に覆われた鉄製のバルブは水量調節のバルブとのこと。

その後はヨーロッパ方式の技術の導入などにより浄水場や水道管の設備が普及。玉川上水は役目を終えます。
今、残っているのはその名残の部分もありますし、上水に蓋をしてしまって暗渠としているところもあります。
近年ではその美しかった街並みを復活してほしいと復活しているエリアもあるようです。

参考サイト

東京都水道局  http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html
wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4
小平市     https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kids/017/017990.html

さいごに

現代人において水は当たり前のライフラインですが、当時からすると貴重なんでよね。
分水された水を井戸にためてそこから組み上げて使っていたようですが、各々の水が溜まるまで時間がかかるので、その間に話しをすることを井戸端会議といったそうです。ここが語源なようです。

水ってありがたいなぁと改めて思うのでした。

それでは!