「FORTY RESIDENCE」

こんなはずじゃなかった。

もうすぐマンションの入り口にさしかかるという瞬間に毎回思う。マンションのすぐそばの川の流れと同じくらい、ゆったり歩く。整備されて切れかけたところさえ見たことない電灯が、川沿いに植えられた木々の葉をてらてらと照らしている。

 マンションの前では一人の女性が私と同じくらいの年齢の女性に謝っていた。何をしたんだろう、と思うも関わらないほうがいいというのが明確な雰囲気で、距離を置いてマンションの入り口へ向かった。謝っている女性のそばにはベビーカーがあって、ピンク色の花柄のブランケットがめくれて小さな子が足をばたつかせていた。

 マンション入り口を抜けて、1222号室のオートロックを開ける。チャイムを鳴らせば斉藤さんがいることは分かっているけれど、また無視をされても嫌だった。結婚前よりも結婚後のほうが気を遣う関係っていったい何なんだろう、と思う。自分が40歳でなければすぐに逃げ出していたかもしれなかった。

 「ただいま」

 玄関を開けて声をかけても返事がない。内側だけ底の減っている革靴は綺麗に隅に揃えられている。

 「ただいま」

 期待を込めてもう一度言いながらリビングに行くと、斎藤さんはいなかった。専用書斎、と呼んでいる部屋をノックすると、ああ、と返事があったので、ただいま、とドア越しに声をかけた。部屋の中から、ノックのときと同じ程度の返事が聞こえた。

 クローゼットの前ですぐにパジャマに着替え、お気に入りの化粧品を並べた洗面所で手を洗いながら化粧も落とした。私が何を着ていようがどんな顔をしていようがこの家では大した問題じゃない。

 冷凍庫から宅配夕食セットを取り出し、ハンバーグディナーセットを電子レンジに入れた。2回電子レンジを回せば2食分できてしまう。結婚してすぐにたくさんの食材を買い込んで2時間もかけて手をふるっていた料理が滑稽に思える。

 テレビをつけると、女優さんの交際報道が流れていて、新居として内見したと言われているマンションのモデルルームをリポーターが紹介していた。間取りも設備も、この部屋と大差なかった。

 ピーピーとレンジが鳴り、もう1食分を入れてボタンを押す。自分のだけ30秒長めに設定した。

 齋藤さんの部屋をノックし、ごはんできました、と言うと。ああ、という返事と、バサバサと雑誌をどける音と、ゲーム機を置く音がした。すぐに動くあたり、待っていたんだな、と分かる。同時に、温めるだけなら勝手にやってくれたらいいのに、という気と、それはさすがに破綻一直線でしょ、という気持ちが湧いた。そもそも齋藤さんは、夕飯がほとんど注文モノということを知っているのだろうか、さすがに気づいてるか、と考えて、どっちでもいいや、と答えがでた。

 齋藤さんは着替えてもおらず、書斎のリクライニングチェアにもたえかかっていたままのよれよれのワイシャツとズボンで椅子に座った。器に入れ替えて出したハンバーグ、ポテトサラダ、野菜のソテーを、いただきますも言わずにフォークで刺した。

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 小学生くらいの子供だなと思う。テレビや漫画やゲームに熱中していて、当たり前にごはんが出てくるものだと思っていて、気が向いたときにしか話をしない。ナイフを使わずにフォークでぐちゃぐちゃと切って食べるのを見るのももう慣れてしまった。

 「あ、日曜日、お義母さんたちと食事会、場所いつものところですか?」

 聞くと、あー、と言って間を置いて、うん、と齋藤さんが返す。斎藤さんと結婚するときの条件のひとつとして、月に1回は斎藤さんの両親とお姉さん夫婦と食事の機会を持つ、といことだった。最初に聞いたときには自分が全く信用されていない気がして落ち込んだけれど、徐々に彼らが心配しているのは私ではなく自分の息子である目の前のこの人だということがうっすらと分かってきた。

 だから、結婚相談所を通してお付き合いをしはじめてすぐに、あれよあれよという速さで、豪華な結婚式場を決められ、都内の高級マンションを購入してくれ、家具まで一緒に選んで揃えてくれたのだった。

 「それさ」

 ぼそっという齋藤さんに、なにが? とご飯を噛みながら聞いた。

 「それ、食事会さ、そろそろやめたいんだけど」

 齋藤さんがフォークでハンバーグをつつきすぎて、綺麗な楕円がぽろぽろになっていくのを見つめる。

 「うん、じゃあ、そう言えばいいんじゃない?」

 私からすれば、仕事の接待や会食に比べたら、静かに齋藤家の話を聞いてごはんを食べていればいい食事会はちょろいものだった。

 「でも、僕が言うと角が立つじゃないか」

 「私が言うほうが角が立つと思う」

 私がすかさず返す、と、んんん、じゃあいいや、と言った。まだいじくりまわしているハンバーグがひき肉の形に戻り、掬おうとしてもフォークの隙間からパラパラと皿に落ちて、斎藤さんが何度もそれをフォークに乗せようとしれいるのが見ていて面白い。

 「じゃあ土曜日はどこか山でも登りに行きますか? ちょっと暑いくらいの季節がちょうどいいって前に言ってたでしょう?」

 私が言うと、斎藤さんは、いやいいよそれはいい、と言って、やっとひき肉状態のハンバーグを掬えた。

 食べるだけ食べて、ごちそうさまも言わず、部屋に戻っていく。その背中に、20年後の風景が映っていた。

 20年したら、このマンションは古めかしくなり、高級とも言えなくなる。都内を見下ろす夜景の風景も変わっている。定年になった齋藤さんは髪が薄くなり、お腹まわりの肉が増え、それでもこうやってほとんどしゃべらず、部屋でゲームや漫画を楽しむのだろうか。未来のゲームや漫画が、今のアウトドアのようなシステムになったら、付き合っていた頃に無理をして自分を飾っていた姿が現実になるのにな、と思う。

 ブブブ、と震えたスマホに、未婚の女友達とバツイチになったばかりの男友達のトークが表示された。「結婚苦行もうすぐ1周年を記念したパーティー」を私のために開催してくれるらしかった。苦行って、と苦笑いし、あぁ遊びたいのかなぁ、と思う。40にもなって遊びたいと思うなんて、と思いながらも、斎藤さんと結婚するまでの10年間はずっと、あぁ落ち着きたい、と言い続けてきたんだからそりゃそうだわ、と納得してしまった。

 バタン、と書斎のドアが閉まる音がして、急に、そこに乗り込む自分を想像した。

 おいこら齋藤! あんた全然話が違うじゃんかよっ! なにが会社の執行役員だわ、パパの下で名前だけ記載されてただけじゃないよ! 実際は派遣と同じような仕事内容なくせにっ! なぁにが趣味は休日に山登りとカメラだわ! 近所の公園の丘にすらのぼらないじゃないっつーの! なぁにがストライプでちょっと遊びのあるシャツが好きなんです、だよ、それ以来着てるとこみたことないわっ!! どこが家事は分担だわ! ずっと部屋にこもってゲームしてるじゃないのよったく!! っつーか、家の中でリクライニングにしか居ないし!!  

私が齋藤さんが体をあずけているリクライニングチェアを足蹴にしてゲームのコードを引っこ抜き、1巻ずつ並べられた漫画をバラバラに床に落とし、最後に、出て行けっ! と言うと、見たことのない私の姿に齋藤さんが固まって突っ立っている。といったところで、想像の幕を下ろした。

 このマンションは斎藤さんの両親の名義だからねー出て行くのは私になっちゃうからねー、もうちょっといいようにさせてもらってからでもいいよねー、ただ齋藤さんの世界の邪魔さえしなきゃいいのかしらねー、あと1歳若かったら何か変わったかしらねぇー、と小鳥に話しかけるように唇を尖らせて独り言を言い、冷蔵庫からビールを出した。

 プルタブの音が響くようにぐっと勢いを込めて開けた。深呼吸をするように口をつけて飲むと、ずずずず、と冷たい缶と唇が音を立てた。

さっきのスマホのトークに、じゃあ新しい出会いがあるように人呼んでもらおうかなぁよろしく~、と送った。そろそろ身体に刺激が必要なのよ、と本来の私が溢れ始めていた。