2016/08/24

「コーポ葉なか」

暮 life
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「コーポ葉なか」

コーポの前にトラックが止まっていて、中から段ボールが搬出されようとしていた。自分に続いて新しい人が来るなんて案外ここは人気なのかな、と思ってしまう。部屋の広さを考えるとトラックにある段ボールは多すぎる気がした。

男女が引っ越し業者となにやら話しをしていて、横を通りすぎる時に小声でこんにちは、と言ってみる。ちわー、と小さく返してくれた男性は、どこか一般人でないようなオシャレな雰囲気がした。

玄関を開けて、帰ってくるたびにダサいなぁ、と思う。こんなダサいところに自分が住むとは思いもしなかった。でも、一人暮らしなら大学の友達も呼べるし、まぁいっか、と言い聞かせる。

コーポ葉なか、は地主さんが葉山さんで管理してるのが中山さんだからだと、不動産屋のおじさんが笑いながら話していた。私はなにがおもしろいのか全く分からなかったけれど、とにかく早く部屋を決めたくて、ふふふふ、と笑っておいた。

1DKの部屋で、まだ荷解きをしていない段ボールを床の中央にずらして、上に買って来たペットボトルとおにぎりを置いた。床に直置きにしてあるテレビをつけると、30代女性あるあるをする女性芸人さんが料理を披露していた。

梅雨特有の湿気を感じて窓を開ける。申し訳程度のベランダのすぐ向こうに、高層レジデンスが立っている。見下ろされてる気分だけど、なんとも思わなかった。そこに住んでいるからって幸せでもなんでもないことをもう知っている。

ピンポーンと間延びした音が響いた。誰だろうとドアを覗くと、お姉ちゃんが立っていた。玄関を開けると、ライトピンクのシフォンスカートに白いシャツを中途半端に入れた格好をしていた。

「お姉ちゃんどしたの?」

「お母さんが心配だから様子見てこいって言うからさ。友達と映画見に行く予定だからすぐ出ちゃうけど」

「あ、そうなんだ」

「あーもう、あっつい、冷房ついてないの?」

お姉ちゃんは紙袋と斜めがけしたバッグを床に置き、座った。

「あー冷房、じゃあつける」

「あんた子供の頃から冷房嫌いだよね、なんで?」

「小さい時はここまで暑いって感じてなかったし、大人になってからは、うん、まぁなんとなく」

「なにそれ、まぁいいけど。こういう安い賃貸でもエアコンついてるんだね」

お姉ちゃんは手で首にはりついた髪をはがした。

「入るときに設置してくれたから新しいやつみたい」

私が言うと、へぇ一応ちゃんとしてんね、と関心していた。

「あ、これ、なんかもらったからって、佳奈子が好きだからって」

お姉ちゃんは紙袋から野菜チップスを出した。

「おー、ありがとう。ここの近くのスーパーじゃ置いてないんだよ、やったー。お母さんにありがとうって言っといて」

「言っとくけどちゃんと自分でも連絡しなよね」

私は、はーい、と言いながらペットボトルのお茶を一口飲んだ。

「それよか、いつでも帰っておいでって、お母さんが」

うん、とペットボトルに口をつけたまま返事をする。口元が歪みそうになるのが分かる。

「わたしもなんで佳奈が急に一人暮らしするなんて言い出したのか分からないけどさ、ちゃんと食べるもの食べなよ」

「わかってるって」

「っていうか、佳奈子が一人暮らししてわたしが実家に居座るのもさぁ」

「なんで? お姉ちゃんおうち大好きじゃん」

「そりゃ、ごはんもあるし洗濯もしなくていいしさ、会社終わったあとに帰ってそのまま寝ちゃえるし楽だもん。でも、わたしもいつまでいるかも分からないから佳奈子がいてくれたほうが安心は安心なんだってば」

「ふーん、そういうもん? あれかもよ、お姉ちゃんずっといるかもしれないじゃん」

私が言うと、は? とイヤそうな顔をした。彼氏と別れたばっかりで最近は友達か会社の後輩とでかけているのを知っていた。

「そういうとこかわいくないんだよなぁ、さすが妹って感じ。そろそろ行くけど大丈夫? 寂しくない?」

「寂しくないよー」

本気で心配そうな顔をするお姉ちゃんを鼻で笑うように返事をすると、ならよかった、と言ってバッグに頭と腕を通した。

お姉ちゃんは、お母さんにはちゃんと連絡しなさいね、となおも言いながらサンダルを履き、思い出したように、そういえばお父さんにも住所教えといたから、とさらっと言った。

「え、なんで?」

「佳奈子から教えてもらってない、なんて言うからお母さんとびっくりして。そりゃ教えるでしょう。今日私が行くって言ったら、俺も行こうかなぁなんて言ってたよ」

お姉ちゃんは不思議そうな顔で私を見る。私は、できるだけ自然な表情を作って、教えたと思うけどなぁ、と言った。

お姉ちゃんはじゃあ忘れてるんだわ更年期障害かね、なんてカラカラした高い声で笑った。

じゃあね、と言うお姉ちゃんに、声を絞り出すような気持ちで、ありがとう、と返した。閉まりかけたドアの隙間で振りつづけられるお姉ちゃんの綺麗な肌の腕を、掴みたくなった。掴んで、全部話してしまいたかった。

ドアが閉まり、カッ、チャ、と安っぽい音がした。

どうしよう、と思わず呟いた。どうしよう、お父さんがここに来たらどうしよう。家ならまだ時間も日にちも限られていた。でもここは私一人の家だ。お母さんとお姉ちゃんが帰ってくることはない。そう考えると、逃げ切れたどころか、最悪の選択をしてしまったような絶望的な感覚になった。

はじめての時は忘れもしない、中学3年生の8月19日の午前中だった。お母さんとお姉ちゃんは、伯母さんの家に寄っておばあちゃんのお墓参りに行くと言って、私は夕方に夏期講習があったから一緒には行かないことにしたのだった。

お母さんとお姉ちゃんは、日傘や手みやげのとらやの羊羹を持ってマンションを出た。マンションの玄関のオフホワイトのタイルにお姉ちゃんの大きい花柄のワンピースが浮かぶように揺れて、去っていった。

私はテラスのドアを開け放った畳の部屋で、冷感タオルを敷いて、その上でごろごろして携帯をいじっていた。

お父さんがリビングからやってきて、テラスのドアに手をかけて閉めようとした。なんでよこの暑いのに、と私が言うと、いやなんとなく、とはっきりしない返事をして、ドアを締め、鍵まで閉めた。エアコンのリモコンで、ピッとオンにして、ピッピッピと設定温度を下げた。

エアコンじゃなくて風でいいから、という私に、んんああ、とくぐもった返事をして、お父さんはカーテンを閉めた。いつもと違う重い空気を感じて、なにしてるの?暗いじゃん、と私が聞くと、お父さんはゆっくり近づいてきた。

なに、と言いかけたところで、お父さんは私の肩を両手でガッとつかみ、畳みに押し付けた。なに、なにすんの、どうしたの、と言う私の口をお父さんは右手で抑えた。

ううう、むむむ、んんんんん、と私の声がゴムボールのようにぼわんぼわんと落ちて自分に戻ってきていた。

綿100%の着心地のいいワンピースがめくりあげられた。私は、両足で畳をドスドスと蹴った。お父さんを蹴ることはできなかった。冷たく冷やされている部屋なのに、脂の浮いたべたべたの顔が自分の頬にくっついていた。胃の中のものが込み上がってきそうだった。生まれて初めて家族を気持ちが悪いと思った。

鼻に届くお父さんの荒い息は何かの薬品のような臭いがして、前髪の生え際には汗がぷつぷつと出ていた。首もとまでめくりあげられたワンピースが、遅いリズムを刻むように上下に鎖骨をこすった。

痛みはなかった。何が起こっているかも15歳の私はよく分かった。だから全てが済んだあとは、無言でシャワーを浴び、自分の部屋にこもり、夏期講習へ出掛けた。

痛みはなかった。血も出なかった。その代わりに、気持ち良さも、嬉しさも、安心も、何もなかった。ただ、あぁセックスさせられた、と思った。ツラい事があったら相談しなさいなんて、世間の大人はどの口で言うんだろうと思った。強制的に圧倒的な破壊力のある秘密を持たされた。何でも話せていたお姉ちゃんにも、一生付き合っていくだろう友達にも、言えない出来事が自分の中に初めて出来てしまった。それも自分の意志と関係なく。

それからの日々は、自分だけが家族の中の異物であるように感じられた。笑っても笑っていない、喜んでも喜んでいない、そんな日が延々と続き、時期を見計らうようにしてお父さんは何度も繰り返した。心と頭の重要なところが急速に冷却されていき、それについては何も考えないことにした。

だから大学生になったら一人暮らしをしたかった。自分の好きな人とちゃんとしたセックスをして、お母さんとお姉ちゃんがいないと不安になるような毎日から逃れたかった。

私は、玄関の鍵を閉め直して、チェーンをかけた。外で誰かがコーポの階段を上ってくればうっすらと音で分かる。冷房を消して、ぼうっとベランダを見つめた。道路を行く人たちの声がよく聞こえて、落ち着いた。

ベランダに半身を乗り出すと、隣の部屋から、あんあんという女性の声と、息苦しそうなでも気持ち良さそうな男の声が聞こえていた。このコーポでの土曜の昼間はいつもこんな感じなんだろうか、と思いながら、隣の他人の存在がちょっと心強かった。

ピンポーン、と間延びした音が部屋に響き、私は玄関をただ見つめた。

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著者
柿沼まさみ
柿沼まさみ

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