2016/09/14

「0.03」

暮 life
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「0.03」

アダルトビデオが落ち着いたところで、自分の体の足先からも力が抜けていくのが分かる。ずっと網戸も開けっ放していたが、そんなことはどうでもいい。

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ピンポンピンポンと連続した呼び出し音がかすかに聞こえていただけならまだしも、今度はドアをドンと叩いた音がした。俺の唯一の休日の愉しみを邪魔されたと思うと、眉間の奥がじんじんと痛くなってくる。最近よくある怒りのサインだった。

俺は玄関を開け、隣に何か用? と言った。

ベランダを突き抜けていた陽射しが目の前でぶわっと強く光った。そうか、ベランダからの太陽は、そびえ立っているレジデンスが薄めていたのか、と気がつく。太陽さえも、自分にはまっすぐに届かないのか、とまたひとつ、絶望的な気持ちが生まれた。

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ぼうっとした俺に向かって、隣の部屋のドアを叩いていた中年の男が何か言いたげに俺を見ていた。

「なんすか」

「いや、あの、先日この部屋に娘が引っ越して来たので様子を見にきたのですが」

中年は、中肉中背で、サンダルはネットでよく見るブランドのものだった。金持ちなのかもしれない、でも、なんでそんな娘がこんな中の下のレベルの部屋に、と思った。

「いないんじゃないっすか」

「いや、いるとは思うんですがね。ま、まぁいいです、どうも失礼しました」

俺は、はぁ、と小さく会釈をした。中年は、何度も俺のほうを、いや、隣の玄関を見て、納得がいかないように帰って行った。

家出か何かだろうか。しかし父親にしては挙動不信すぎるだろ、と気になり、試しに隣の玄関の呼び出しを押してみる。間延びした、ピーンポーンという音が外まで聞こえる。

隣の者ですけど、と声をかけてみると、ガチャッとドアが開いた。すうっと、室内から冷気が流れてきた。

普通の20歳くらいの女の子だった。俺よりも15歳くらい下なんだろうが、部屋着のシャツから見えそうな胸元に目が行った。

「今、なんか、父親って人が来てましたけど」

言って、自己紹介するべきだったか、と思った。

「あ、そうなんですか、すみません、気づかなくて」

「今さっきだから、ちょっとその辺追えばいると思うけど?」

俺の言葉に女の子はバッと顔を上げ、左右に振った。

あんなに呼び鈴を押されてドアを叩かれて、気づかないことないだろう、と思った。

「なんか、訳アリかなんか知らないけど、危ない目にあうんだったら、だいたい週末は隣にいるんで、何かあれば」

いい人ぶっているのか、口がさらさらと動く。これは営業の職業病だろうか。

女の子は、はい、と頷いて、どうもすみませんでした、と言った。育ちがいいんだろう、と思った。俺も、いつまでかはこうだった気がした。いつだったか、10代の頃だったか、20代の頃だったか、あぁそうか、あの時までか、と思い当たって思い出すのをやめた。

じゃあ、と開けられたドアに添えた手を離すと、ゆっくりドアが閉まっていった。お辞儀をする女の子のシャツの首もとが緩い。下着をつけているだろうと思ったが、ちらっと、胸の膨らみの上部が見えた。女の子の肌の質感や髪の揺れを近くて感じたのは久しぶりだと思った。

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自分の部屋に戻ると、冷房のない湿気た空気が腕にも顔にもまとわりついてきた。布団のそばに丸められたティッシュと、テレビにはDVDのチャプター案内が映されていた。その間についさっきまで自分が丸まっていたのだと思うと、後悔のようなやるせないような情けないような気持ちになった。

もう辞めよう、こんな自堕落な休日を繰り返すのは辞めよう。と、DVDを取り出し、テレビは情報番組にし、ティッシュを捨て、本棚からグラビア雑誌を抜き取り捨て、テレビ台の引き出しからいつ使うのかも分からないコンドームの箱を取り出した。捨てよう、と思いながら、パッケージに印刷された数字が手を止めさせた。0.03。

どっと、記憶が巻き戻された。

0.03だった。俺の人生が終わったのは0.03だった。

29歳の頃、水泳の世界選手権に出場した。名前の通っていた期待されている選手とは違い、俺は地方から海外にトレーニング留学をしていた地味で遅咲きと紹介される選手だった。

それでも、オリンピックの出場を懸けた大会まで漕ぎ着け、上位2人に入ればオリンピックの代表に決まるところまで来ていた。

その試合で、確かに俺は水にちゃんと包まれていた。競泳水着には細かい気泡が、俺を守る様についていた。ターンをするたびに、それまでに聞こえなかった水の轟くような音が聞こえた。俺の呼吸も、ヘッドホンで聞いているようにはっきり聞こえた。

最後のタッチで、会場の空気が止まったのが分かった。顔を上げると水が薄い膜のように頭を覆った。タイムを見ると、0.03秒差で代表に届かなかった。会場は後ろや横からの歓声が上がり、隣を泳いでいた幼少時代から何度も戦ってきた選手が手を上げて喜んでいた。期待されていた選手が期待通りの結果を残した、誰もが望んでいた結果なのだと一瞬で分かった。

惜しかったですね、と大会関係者かライターのような人が声をかけてくれ、何人かの質問に答えた。でも、翌日にネットで扱われることもなく、テレビに俺の名前が映ったのは、タイムの表示の電光掲示板だけだった。スポーツニュースでは、代表を決めた選手のうしろを真顔で歩く自分の姿が横切っているだけが映されていた。いないのと同じだった。

たとえば、テレビであれだけ騒がれていたマラソンの国際大会で、1位になったほうがオリンピックに出れる、という試合で、たった数秒で2位になった選手が何をしているかなんて、誰も気に留めていないだろう。たとえ1位の人がオリンピックに出たところで散々な結果だったとしても。

俺はコーチと話し合い、選手人生を人知れず終えた。それからスポーツ用品の会社に就職したものの、あの人選手だったんだって、へー知らないねー、と小声で話していた女性社員に会社を案内され、営業職をはじめた。取引先との挨拶のときに、先輩が、こいつ選手だったんですよー、という2秒間以外に、俺が選手でいられた時間はなかった。営業の成績も普通で、これといって向いているとも思えないが、子供の頃から競泳しかしていなかった俺には他にできることもないと思った。

これまで一生懸命燃やしつづけてきた人生が、数秒で終わったんだと思った。時間を追うごとに、いろいろなことがどうでも良くなった。彼女を作ること、年収を上げること、婚活をすること、友人と飲みにいって近況報告という名の家族仕事自慢をすること、すべてがどうでもよくなった。

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コンドームの箱を引き出しに戻す。

押し入れに隠す様にしていた紙袋から、競泳水着を引っ張り出した。古くさい、土のような匂いがするが、そのまま下半身を通した。一気に、だらしなかった下半身が締め付けられた。いつのまにかついた贅肉に水着が食い込んで、もう二度と脱げないのではないかと思った。

部屋干しをしていたTシャツをハンガーから引っぱり落とし、着た。競泳水着にTシャツという、なんだかギリギリな格好で、俺は外に飛び出した。部屋でまとった湿気に加えて、陽射しが肌の表面から水分を奪っていく。

歩けば音の響く階段を、2階の住人が上っているのが分かる。コンビニにでも行っていたのだろう、炭酸飲料をプシュと開けて飲みながら階段を上りきっているのが見えた。

一刻も早く水に飛び込みたい。

コーポを出て、走りだした。通り過ぎる人からはジョギングやトレーニングをしているように見えるのかもしれない。

俺は一体なにをしているんだろうか。

どこか辿り着くべき場所に向かっているのだろうか、いや、逃げているのだろうか、何から? 分からない。何をどうしたらいいのか分からない。

途中で、隣の部屋の女の子の首もとから見えた胸がちらついた。じわりと汗がでる。部屋の布団に戻ろうかと考えるも、体が勝手に走っていく。

何が楽しいんだ。泳がない自分の人生なんて、何が楽しいんだ。

絶望的な気分は続いている。走っても走っても、ふりきることができない。

それでもただ、一刻も早く水に飛び込みたかった。

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著者
柿沼まさみ
柿沼まさみ

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