『埋めたい』
「アパートを経営している、というよりは、若い人たちがそんなに高いお金を出さなくてもちゃんと住める場所をつくっている、という意識だったようです」
落ち込んでいるのかうまく説明の出来ない義理の母のために、私がこたえる。
「アパートじゃないんですよ、コーポです」
それだけ小さな声で言う義理の母親に、そんなことはどうでもいい、と心の中で突っ込む。
「でもね、中山さんね、長く管理人だか地主だかやってきたわけでしょう?」
警察官の問いかけに、ただ義理の母親は頷くことしかしない。内心、なんで私がここにいなきゃならないのかと思う。
「アパート、あ、コーポね、区画整理でもなけりゃ取り壊せとは言えないけどさ、ちょっと葉山さんだっけ? そのもう一人の管理者とちゃんと話し合ってみてよ」
そう言われて、義理の母は、ええともはいとも聞こえない声でこたえた。
私はスマホを取り出して、旦那に、一応落着、とだけメッセージを送った。
「お義母さん、私も剛さんもお義母さんには無理してほしくないって思ってるんですよ。ほら、アパートのお庭の手入れも大変そうだし」
私が言うと、それは違うの、と強い口調で返された。私にそんなふうに言うならさっきもそうしたらよかったのに、と言いたくなる。
「それは違うのよ、絵里子さん。あのコーポは、確かに古くて建て付けが悪くなっていたり、防犯に問題があったり、住んでいる人に変わった人も多いけれど、どんな人でも少しでも心地よく住めるようにお花を植えるのが私の役目なのよ」
そんだけ問題があったらもう十分じゃないかと思う。お花を植えるのが好きならアパートはもうなくして農園でもやってくれたらいいのに、と言いたくなる。
「まぁそうかもしれませんけれど。でも今回は、問題が立て続けに表面化してしまっているし、ご近所も良い顔をしないし、このあと剛さんも来てくれますから一緒に話し合いましょう、お義母さん」
私が言っても、お義母さんは、いいのいいのいいのよぉ、と言う。
「いいのいいのぉ、絵里子さんが心配するようなことじゃあないんだから」
笑いながら話すのを聞くと、年のせいか言葉の途切れが悪い。私が心配していると思っているところが、頭の中にもお花植えてんだな、と思った。
『コーポ葉なか』については笑っている場合ではなかった。
先日、2階の住人女性の知り合いという男性が直接訪ねてきた。
田井佑司と丁寧に名乗った男は、女性が住んでいるんじゃないかと周囲に聞いて回っているようだった。
個人情報だから住んでいる人のことについては教えられない、と話したのに、俺のプライベートが危ないんです、とわけのわからないことを言っていた。
住人女性にトラブルなどは特にないので、申し訳ないのですがと断ってお引き取り願ったばかりだった。女性のプライベートのほうが危ないんじゃないかと思ったが、聞かなかったことにしたとお義母さんは話していた。
その前には、競泳用のきわどい海パン姿で近所を走っている男がいる、残暑と言ってもあれは迷惑だ、と苦情があったらしく、調べられたらコーポの住人の男だった。日本代表の候補になるほどの競泳選手だったらしいが、名前を聞いても私は全く知らなかった。
それだけでない。
大きな部屋へ引っ越す予定があるので数ヶ月だけ荷物置き場として借りたい、と言っていた女性が、スキャンダルを起こした。
さすがにこれを聞いたときは驚いたけれど、春頃に連日ワイドショーで扱われていた人気ミュージシャンの別れた妻だった。
ミュージシャンは女優とまだ付き合っているんじゃないかと私は思っているのだが、まさか妻のほうがミュージシャンのいるバンドのメンバーとデキているとは思わなかった。
妻のほうではなくメンバーを追っていた週刊誌がアパートへ入っていくメンバーと妻の姿を掲載し、外観からすぐにコーポ葉なかだと広まってしまった。
バンドのファンや報道陣やら野次馬が一時期集まってしまい、対処しきれなかった。
同時に、私は、こんな身近に芸能人っているんだ、とちょっとテンションが上がって友達に言って回った。
うちのお義母さんのアパートに住んでてさ! と言うと、スキャンダルを知らない人はいない世間で、マジで! そんなことあるんだ! メンバーに会った? などと盛り上がって正直優越感を感じられた。
彼らが本当に広いマンションへ引っ越してしまうと別世界のように静まり帰った。
残ったのは、変わった住人ばかりだった。つまり、迷惑。私からしたら維持費や花植えなど、手間のかかることばかりだし、そんな住人がいるおかげで家賃を上げることもできない。
「絵里子さん、ちょっとお庭の手入れをしてから帰りたいから、コーポに寄ってもらえないかしら?」
お義母さんは、バッグの中から、ビニール袋を出した。縛っていた袋の口を開き、鉄製の小さなシャベルを取り出した。
「えぇ、いいですけど。剛さんに連絡しておきますね。もう仕事終わって向かっている時間帯でしょうし、剛さんにも直接アパートに寄ってもらうように伝えてみます」
お義母さんの歩幅に合わせるように歩き、アパートの前につくと、コーポ葉なか、というプレートが錆び付いたように色が変わっている。
「あの、お義母さん」
私が声をかけると、なぁにどうしたの絵里子さん、とにこにことした。
「お義母さんはお庭をとても大事に手入れされているのに、どうして、その、表札とか石垣とかそれぞれの部屋のドアの汚れとか、そういうものには手をつけないんですか」
お義母さんは、ふふふ、と楽しそうな顔をした。
「やだ絵里子さん今ごろ気づいたの? お庭以外は私にはどうでもいいんだもの。新しく人が来る部屋はそれなりに綺麗になるように手配してるのよ。でも、ねぇ、それだって仕方なくよ」
え、と驚いた。あんなにこの場所を大事にしていた割には冷たい返事だった。
「人様の部屋のことなんでどうでもいいじゃない」
私は、えぇ、まぁ、と違和感を感じながら返した。
お義母さんは私に構わず、敷地内に入り、角の土をシャベルでほじくりはじめた。
植えたばかりに見える花が掘りかえされて、花びらも茎もぶちぶちと小さく音をたてる。
土のサラダを作っているみたいに、みるみるうちに細かく刻まれて土に混ざり合って行く。
「もったいなくないですか、そのお花」
私はロングカーディガンが汚れるのがイヤで、しゃがみこまずに覗いた。
「絵里子さんにはお花しか見えていないのね」
え、という私に、ほら、とシャベルをより深いところに挿して、掘り返した。シャベルから土を払い、お義母さんは、白い石灰のような固まりをつまんだ。
「これね、おとうさん」
私は、思わず悲鳴を上げそうになる。
「なんですか、なに言ってるんですかお義母さん、これがお義父さんだなんて」
古くなった白いチョークのように、手の中で骨がほろりと割れている。
「お葬式のときにね、少し分けてもらっちゃった」
勝手に取ったんでしょう、としか思いようがなかった。
「おとうさんが亡くなったときのこと、絵里子さん剛からなんて聞いたの?」
途切れの悪いまったりした口調でお義母さんが言った。
「お義母さんが朝、目をさましたら、眠るように亡くなっていたと...お医者さんからは動脈瘤だったと...」
「いい子ね剛は、まぁ知る由もないんだけれどね」
私はなんだか分からないまま、ふふっと笑うお義母さんを見下ろした。
グレーのカーディガンを羽織った背中に毛糸の編み目が浮かんで、小さな背中がダンゴムシみたいにまるまって見える。
「夜中にね、おとうさん苦しんだのよ。息が苦しいって。私を呼んだのよ。私は背中をさすったり、吐きたいって言うおとうさんにタオルを当ててあげたりしていたわ」
「でも、救急車は、呼べなかったんですか、気が動転して、とか?」
私は、落ち着け落ち着けと次を聞きたいような聞きたくないような気持ちでお義母さんの答えを待った。
「呼ばなかったわ。助からないと思った。は、半分ね。あとは、もういなくていいと思っちゃったのよ。どうしてか分からないけれど」
分からないからって、と私が小声で言うと、お義母さんは首をゆっくりまわして私を見上げた。
「あなたも、あと10年、20年したら、剛にどんなことを思うのかしらね。きっとそれは本人にしか分からないわ」
私は全く想像がつかないまま黙っていた。きっと剛さんに何かあったら一刻も早くどうにかしたい、と思うに違いない、と今は思う。
「大事だったのよ。大事だったから、その時のままがよかった。その時のまま、時間を止めて、大事な存在のままにしておきたかったの」
私が黙っていると、あと少しで着くよ、と剛さんからメッセージが届いた。今見ていること聞いたことを言うわけにはいかないことだけは分かった。
「だからね、私みたいにね、大事なものを失えない、それで自分がなんだか分からなくなってしまう、そんな人たちのためにね、このコーポが必要なのよ」
そう言いながら、お義父さんの骨のようなものを丁寧に拾って、シャベルの入っていた袋にぽいぽい入れていった。
「でも、そろそろ潮時なのかしらねぇ。世間は優しくないから。もうコーポのことはあなたたち夫婦に任せようかしら」
お義母さんは微笑んでゆっくり立ち上がった。立ち上がってもやっぱり背中はゆるやかな弧を描いていた。
大変だったな、という声が聞こえてコーポの入り口を見ると、剛さんがいた。なにしてたんだ、と聞く剛さんに、大事なものを絵里子さんに見せていたのよ、と落ち着いた声で言った。
かあさんの自慢の花だろどうせ、せっかくだし夕ご飯おごるよ、と言う剛さんについて歩き出す。お義母さんはうれしそうに隣をゆっくり歩いていく。私はあとにつきながら、もうこのコーポは手放すんだろう、と思ってふり返った。
綺麗に手入れをされて花が植えられた庭の一角だけ、土が掘り返されて本来の姿に戻っていた。今度は私がここに花を植えるのだろうかと思うと、埋めたいものがいくつかあった。