『粉々』

「うちより全然綺麗なキッチンだよー」

美香子が両手をついて流し台を覗き込む様にして言う。俺はスーパーの袋からにんじんとかぼちゃを出して置いた。

カーテンを開けたまま家を出たからか、もう冬になるのに昼の陽ざしがキッチンにまで届いている。

「そう? そんなに俺は綺麗好きでもないんだけど、ありがと。設備がいいから実はそんなに掃除しなくてもだいたいこんな感じなんだよね」

「宏樹くんて料理もするんだね」

「も、ってなに? も、って。美香子ちゃんも料理するの? 実家だからそんなにしない?」

「するよ、するする!」

「じゃあ次は何か作ってもらおうかな」

「宏樹くんより美味しくできちゃうかもよ」

ははは、とお互いに少しぎこちなく笑いながら、まだ2回、映画館と水族館でデートをしただけなのに、美香子はどこまで俺のことを見ているんだろう、と思う。

「最初にみんなで飲んでたときに、趣味でギターやってます、みたいなこと言ってたでしょ? だからこんな料理するような雰囲気じゃなくって、部屋にギターが何本も並んで狭くて汚いのかなとか思ってたの。ごめんね」

「ギターはアコギ1本しかないよ」

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そう言って笑いかけると、アコギがなんの略なのかも釈然としていないような顔でただかわいい笑顔をつくっていた。美香子はいつも俺との出逢いを合コンだとは言わない。合コンで出会った人と付き合う、というのを人に言うのが恥ずかしいんだろうと表情で分かる。

半年前に別れた元カノには、部屋が綺麗すぎて落ち着かない、とか、髪の毛が落ちただけで自分で拾わなきゃならないような気がしてゴロゴロできない、とか言われていた。美香子もそのうちそんなこと言い出すのだろうか、と見つめると、カウンターキッチンを挟んで目が合う。

「簡単にしか作れないけど、テレビでも見て待ってて」

「私も手伝おうか?」

「ううん、いいいい。今度は作ってもらうかもしれないから今日はゆっくりしててよ」

そう言いながら、内心、自分のキッチンに、初めて来た女の子が立ってなにかできるとは思わないし、いちいちどこに何があるか聞かれても面倒だと思った。

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買ったばかりの人参とかぼちゃを袋から出し、冷蔵庫から、茄子、じゃがいも、玉ねぎ、にんにくを出した。鶏の手羽元のパックに指を突っ込んで開け、酒、カレー粉、塩、薄力粉で下味をつける。鍋の水の中にすべて置くように入れて、トマトジュース、コンソメ、カレー粉、ソース、砂糖、塩で味を付けて、ローリエを入れて煮込んだ。

強めだったカレーの匂いが、少しずつまろやかになっていくのが分かる。それでも辛さが失われないのがこのカレースープの良さだ。

キッチンの向こうから、ローソファに座っている美香子が、カレーでしょ? と分かったような顔をしてふり返った。

君の知ってるカレーとは違うよ、と言いかけて、美香子の口に合うといいけど、と言ってみた。

「昼間だから軽くカレースープだけど、夜は美香子の好きなお店に食べに行こう」

「ほんと? じゃあ新宿に行ってみたいパスタのお店があるから行こうよ夜」

「うん、それで帰りの時間が過ぎちゃったらここに戻ってきても泊まってもいいわけだし」

俺が言うと、美香子は、それでもいいよね、とちょっと恥ずかしそうにした。

ローテーブルにカレースープとスプーンを置いて、いただきまーす、と俺が言うと、一口運んで、美味しい、と美香子が俺を見た。

丸く白い陶器のボウル皿に、ごろっとしたじゃがいもと薄い扇形のかぼちゃ、大きめの人参、赤いパプリカが、橙色に艶やかに身を寄せ合っている。

昔、麻衣子が作ってくれたものと全く同じだった。10年前、まだ大学生だった俺のはじめての彼女だった。そのときに麻衣子はもう社会人で、ちゃんとしたもの食べてないんでしょう、と言いながらいつもごはんを作ってくれた。

麻衣子の家はアパートだったけれど、とても居心地がよくて、冬になるとガスヒーターが部屋の空気を温めて、ちょっと乾燥した感じも好きだった。

北海道で育った麻衣子は、東京にはカレー屋さんがいっぱいあって、インドカレーもタイカレーも食べられるけど、美味しいカレースープのお店がないんだよね、と話して、麻衣子が自分で食べて美味しいと思えるカレースープを作ってくれたのだった。

俺はそのカレースープが大好きで、これを作れるようになったら、仕事で疲れた麻衣子を部屋で待っていられるんじゃないかとか、休みの日に作ってあげたら喜んでくれるんじゃないかと思って、作り方を聞いてスマホに保存していた。

結局麻衣子は、同じ会社の同僚と結婚することになって、俺は泣きながら謝られて、泣きたいのは俺だと言いながら、麻衣子が別れたいと言ってから何ヶ月たっても家に入り浸っていた自分を情けなく思った。情けなく思うと同時に、同僚の相手がカレースープが苦手な奴だったらいいのに、と思った。味覚が合わないのは一緒にいて致命的だ。

「宏樹くん、ちょっとこれ辛いかも」

「あ、ごめん水とかお茶とか出してなかったよね、ちょっと待ってて」

俺は立ち上がって、冷蔵庫から天然水を出してコップに注いで、ふり返って見ている美香子にコップを手渡した。

「ありがとう。宏樹くんて辛いの好きなの?」

「いや、そういうわけじゃないけど。これ作るときはいつもこうなんだ」

「そっかぁ。味はすっごく美味しいよ、野菜にも染み込んでておいしい。ちょっと辛いかなって思っただけ」

「じゃあ次は甘めにするね」

俺がそう言うと、美香子は、うん、と言って水を飲み、カレースープを飲み、水を飲み、交互に飲みすすめた。

食べ終わり、片付けは私がするよ、という美香子に、いいからいいから座ってて、と俺は立ち上がった。表面にカレースープの色がくっついた皿を重ねて置き、キッチンで蛇口をひねった。節水機能がついていて、空気をふくんだつぶつぶの水が、皿の白さを取り戻していく。

むいたままにしていた人参とじゃがいもの皮やパプリカの種を、そのまま流しに捨てた。水を流しながら、ディスポーサーのスイッチを入れる。今まで何なのかが分かる姿をしていた野菜のクズや、少しだけ生えていた根や、堅くなった茎が粉々になってそのまま落ちていく。

ちょっと辛くない? と言った美香子とこれから付き合っていけるのか、俺は、好きで好きでたまらないものを変えていけるのか、そんなことを考えながら蛇口から流れ出る水を手に受けつづけた。